横浜毘沙門天
横浜毘沙門天の由来
横浜毘沙門天でおなじみの、高野山真言宗禅馬山三郷院真照寺は、寿永元年(1182年)に、磯子の領主平子氏によって中興されたと伝わります。
本堂に安置されております毘沙門天像は、横浜市の指定文化財となっております。
(平成20年度、横浜市指定有形文化財(平安時代後期、12世紀前半頃の作))
ひのきの一本造りで、高さは約5尺3寸で迫力のある立派なお姿です。
玉眼造りといい、眼に水晶がはめ込まれているのが特色です。
長く、江戸時代の作とされて来ましたが、一部の学者より異論が上がり、詳細に鑑定された所、寺伝の通り、平安後期の作品であることが認定され、文化財として指定されることになりました。
(写真提供(C)横浜市教育委員会)
平子氏と毘沙門天
寺伝によれば、当山の毘沙門天像は、平安時代末期、磯子一帯を支配していた御家人「平子有長(たいらご ありなが)」の発願によるものとされています。
平子氏は、真照寺裏の山の上に居城を構え、持仏として武の神である「毘沙門天」を信仰していました。
平子有長は、建久4年(1193年)の源頼朝の催す富士野の巻狩に参加した時、日本三大仇討ちのひとつとして有名な「曽我兄弟の仇討ち事件」に遭遇します。
父のかたき工藤祐経を討ち果たした曽我兄弟は、そのまま源頼朝の陣屋に乱入しますが、その時、最初に立ち向かったのが平子有長であると、吾妻鑑に書かれています。
曽我十朗との立会で深手を負った平子有長でしたが、九死に一生を得、これも日ごろ信仰する毘沙門天のおかげと、毘沙門天像を建立したと伝わります。
その姿は、平子有長本人を模しているとも言います。
これが、現在本堂に祭られている毘沙門天像なのです。
(写真提供(c)横浜市教育委員会)
横浜磯子七福神
横浜磯子七福神は、大正七年に始まったと言われています。当寺の毘沙門天は、そのうちの一尊に数えられ、長く信仰されてきました。
アジア太平洋戦争の混乱で一時途絶えていましたが、昭和五十三年、磯子区制五十周年記念事業の一環として、歴史と文化に触れ、体力向上、健康保持にも役立つ約九キロの巡拝コースが整備されました。
今では、磯子の新年に欠かせない風物詩として定着しています。
ご開帳は毎年元日から一月十五日まで。詳しくはお問い合わせください。
横浜磯子七福神札所
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福禄寿「弘誓院」_横浜市南区睦町2−221
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寿老人「寶生寺」_横浜市南区堀ノ内町1−68
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布袋尊「密蔵院」_横浜市磯子区滝頭3−13−5
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大黒天「金剛院」_横浜市磯子区岡村5−3−1
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恵比寿「宝積寺」_横浜市磯子区上町7−13
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弁財天「金蔵院」_横浜市磯子区磯子4−3−6
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毘沙門天「真照寺」横浜市磯子区磯子8−14−12
七福神めぐりは、江戸時代の中頃に盛んになった行事で、新年に一年間の幸運を願って行われました。
インド、中国、日本の神仏を網羅する、グローバル感覚あふれたイベントと言えるでしょう。
戦後、一時的に衰退しましたが、近年、手軽なレクリエーションとして再び盛んになっています。
伝統ある七福神が復興されるだけでなく、あらたな七福神を構成されるところもあるようです。
御朱印のご案内
御朱印は徳を積むための仏事の一環で、参拝した証です。スタンプラリーやコレクターズアイテムではありません。その点をご理解の上、お受けください。
横浜磯子七福神の一として永年親しまれてきた毘沙門天様の御朱印をご紹介いたします。
龍虎の印を押したバージョンを追加いたしました。 龍は当地、磯子の滝頭(滝は龍をあらわします)であり、虎は毘沙門天様のお使いです。
龍虎が相対し、そして相和する姿は、当寺・真照寺の姿そのものと言えます。福徳・勝運のご利益がありますことを祈念いたします。
毘沙門天様と虎
飛鳥時代、聖徳太子が物部守屋討伐の為に祈願したところ、寅の年の寅の日、寅の刻に毘沙門天様が顕現され、戦を勝利に導き、仏教の興隆の始まりになったと言われています。
そのことから、毘沙門天様のお使いは虎であると言われるようになりました。
また、虎は1日千里を走ると言われ、その力強く神々しい姿は、猛々しい毘沙門天様のお姿につながります。
阿弥陀三尊の御朱印
令和元年10月18日に開催されました横浜市教育委員会におきまして、当山の阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像と両脇侍像)が、横浜市指定有形文化財になりました。 平安末期から鎌倉初期にかけて、鎌倉周辺で奈良仏師が活躍した実態をあらわす貴重なお像であると認定されたものです。
それを記念して、阿弥陀様のお姿を表した新しい御朱印を設けました。
新しい歳に、阿弥陀様の無量の光のご利益に与っていただけますよう祈念申し上げます。