令和7年・終戦80周年の戦没者ご供養のこと
- 真照寺 公式
- 6 日前
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令和7年は、改めて戦没者・戦争犠牲者のご供養を意識する一年でありました。
新年早々、境内に台湾出身戦没者慰霊碑を建立することが決まったことを皮切りに、沖縄、ミャンマー、台湾、フィリピンと慰霊に明け暮れる一年となりました。
80年前(1945年)3月26日〜6月22日にわたり、日本国内唯一の地上戦が、沖縄で展開され、兵隊約10万人、民間人約10万人が犠牲となりました。当時の沖縄の人口の三分の一が亡くなったと言われています。今でも、あちこちの濠の中には回収されていない御遺骨が多く眠られているのです。
本年、当山境内に台湾出身戦没者慰霊碑を建立するにあたり、4月に沖縄の台湾の碑をお訪ねして、下の土をいただいて参りました。
その時、慰霊碑の立ち並ぶ摩文仁の丘より、海に向かい追悼を行いました。

ミャンマーのヤンゴン日本人墓地での慰霊も毎年の恒例となっております。本年は5月に参りましたが、その前3月にミャンマー大地震が起こりましたので、例年の慰霊に加えて被災地を訪れてご供養することとなりました。
ヤンゴン日本人墓地の慰霊碑は、当山の檀信徒、国分正男(長谷川正男)氏が建立したものですが、その後当山に寄贈され、真照寺が維持管理を行っております。1944年3月から7月にかけて展開された日本軍のインパール作戦の死者は3万人を数え、多くが餓死、病死でした。当山では、亡くなられた方々を思い、慰霊碑の前にはたくさんの水や果物、日本酒やお菓子をお供えして、ご供養を行なっております。

9月には、台湾の鳳山紅毛港保安堂保安堂にて、当山の台湾出身戦没者慰霊碑の分祠が建立され、その開眼供養を行いました。
保安堂は日本海軍の巡洋艦「蓬」を御神体と仰ぎ、戦没した乗組員145名のご供養をしているお堂でもあります。
その折に、その皆様のご供養も執行いたしました。
フィリピンのルソン島・マバラカットは、最初の神風特攻隊が飛び立った飛行場がある所です。
1944年10月25日が、その第1陣の出撃日となります。
以後終戦までの約十ヶ月、神風特攻隊の攻撃が続くのです。
マバラカットでの慰霊は、徳洲会が建立した慰霊碑のある、池口恵観大僧正建立による平和観音宮で行うのが恒例でした。
今回は諸事情により、代わりに基地近くにある2ヶ所の慰霊碑でご供養することとなりました。
空軍基地に近い街中の道路には所々、警備する兵士の姿が見えます。
観光地ではないためガイドも不案内で、一つ目の慰霊碑にたどり着くまで、1時間半もかかってしまいました。
慰霊碑を守る門は、鳥居の形をしていました。
そこに一人の兵士が立っていました。彼の瞳が潤んで見えたのは気のせいでしょうか?

二つ目の慰霊碑は、空軍基地内の丘の側、広大な敷地に建立されていました。
巨大な慰霊碑に、大きく人々の名前が刻まれていました。

終戦から80年の月日が流れ、訪れる人もまばらな慰霊碑ですが、どちらも整備が行き届いておりました。
特攻隊への畏敬の念が、ひしひしと感じられました。
供養を終え、マニラに戻った時には、とても綺麗な夕日が輝いておりました。
翌日、続いてコレヒドール島の戦没者慰霊観音の供養を行いました。
かつては多くの観光客で賑わっていたコレヒドール島ですが、コロナ禍が直撃し、リゾートホテルも土産物屋も、島に向かうフェリー会社すら倒産してしまっておりました。
地元の漁師に協力してもらい、ようやく渡ることができた島では、多くの猿と犬が出迎えてくれました。
車で日本庭園に向かい、日米両国の戦没者供養を行いました。

日本の菓子や日本酒を供え、お線香をたくさん手向けました。
お菓子はガイドのエドワード氏に、お酒は、船頭さんにプレゼントしました。
こうして、無事、コレヒドール島の戦没者供養も終了いたしました。
とても意義のある、終戦80年の年。私自身古希を迎え、充実した一年となりました。








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